【感想】嫌われる勇気
- #読書
3歳の姪に嫌われ続ける栗原です。
「嫌われる勇気」
多分10年前くらいに1回読んだ。
「良い本だったな」という記憶はある。
なんとなく、10年越しに読んでみた。
内容なんか覚えてないよね
のっけから
「こんな本だったっけ?」
「哲人?青年?どうなるのこれから?」
前に読んだ本の内容って忘れているよな。
でもきっと、10年前にこの本を通して得た知恵は身体の中に染み込み、その後の経験を通して身体に刷り込まれているんだな。
というのも、読みながら思う感想は「そうだよね」だった。
「新しい!感動!」ではなく、「そうそう、わかるよ」。
それに「いま、ここ」の観点など、仏教と似ている部分が結構あるなと思った。
そういう視点がバックグラウンドにある状態で読むと、違った面白さがあるね。
目的論と原因論
一番考え方で新鮮だったのは、目的論と原因論。
今の現状は過去の原因から来るものではなく、目的から来るもの。という考え方。
分かるなあ。
例えば、何かやりたいことがあったとして、挑戦できていないとする。
「仕事で忙しいから」
「〇〇だから」
とあたかも何かの原因があって、出来ないような話の流れにしがち。
だけど、本当は
「今の生活を変えたくない」
「挑戦して失敗して恥をかくのを避けたい」
など別の目的があって、今の行動の選択を取っているという考え方。
この考え方は、自分の本心と向き合う考え方でいいね。
他の「原因」に委ねるんじゃなくて、全ては自分の「目的」、内部にある。
だからこそ、自分の課題として捉えて、前に進めるわけだ。
実践こそが全て
仏教にもいえることだが、この手の類の本は、実践こそが難しい。
言ってることは分かるけど、実践できるか。
まるで綺麗事をつらつら並べられたよう気がして、途中途中、青年と一緒に叫びかけた瞬間はある。
きっと理屈が分かっている人間など山のようにいる。
そして理屈を分かっているだけで満足している人間もいる。
実践することに価値があるのだ。
いま、ここ
最後の一節、すごく好き。
青年が「10年前にアドラー心理学を知れていたら!」と嘆くシーン。
自分もたまにある。
「もっと早く挑戦できていたら」
「もっと早くこの本に出会えていたら」
後悔の念が積み重なり前が見えなくなる。
しかし、「いまの自分」に響いてるからこそ、そう思える。
青年がたとえ10年前にアドラー心理学に出会ったとしても、同じように吸収できたかどうかは分からない。
過去にあったこれまでの全ての経験が今の気づきの深さを与えてくれているわけで、全て点がつながっている。
昔悲しいことや辛いことがあったかも知れない。でも、だからこそ今素敵な気づきがある。
それをキャッチできる、その「いま」を喜べる。
そして、最後のアドラーの言葉。
「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。わたしの助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく」
今この瞬間から、私の力だけで変えられる。
アドラー心理学の素晴らしさを凝縮したようなセリフだった。
一度も読んだことのない人にはぜひお勧めしたい。
承認欲求 x ブログ
アドラー心理学は承認欲求を明確に否定している。痛快だ。
自分も承認欲求は20代の頃は強かったけど、かなり減ってきた。
生物学的なホルモンとか、その辺ともリンクしている欲求なんかな、もしかしたら。
今は結構どうでも良いレベル。
この本の中での共同体感覚に近しいんだけど、どっちかという仏教の「空」の感覚で、
自分と周りとの境界線がずっと自分の皮膚で覆われていたのが、それがどんどん拡張していって、
私もあなたも私だし、私もあなたもあなただし、みたいな?笑
とにかくそんな感覚の中で他者からの承認みたいなレイヤーが吹き飛んでしまうというか。
このブログもある種、そのトレーニングと言いますか。
誰にどんなこと思われるかな、とか全くそんなの関係ない。
文章も下手だし、面白い文章が書けるわけでもない。
それでも、ただ自分の感じたことをつらつら書いている。
見て欲しいという欲求があるから、発信するのではないのか。
そんなジレンマに陥りそうになるが、それよりもただここに自分がいて、自分が何かを感じることに価値があるのだ。
どんなに未熟な自分でも恥ずかしがることはない。
感じたことを書くこと、発信すること。
その表現の一つとして、これからもつらつら書いていこうと思った。
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